33、特攻魂のままに その1

特攻魂のままに その1

 

 平成24年に、「特攻魂のままに 靖國神社宮司大野俊康講演集」を展転社より出版した。

題名通り、大野宮司の講演内容をまとめた本である。もちろん、皇室を始め英霊のことや靖國神社のことについて、熱誠あふれる大野宮司の言葉を記録することが出版の目的であった。しかし、それとともに大野宮司の人となりを伝えなければ、講演の一語一語に込められた思いや願いは理解してもらえない。そこで、最終章に「虎乗り鐘馗の年賀状の縁起」を記したのである。

ここに、その全文を紹介するにあたり、先ずは最終章の結語をお読みいただきたい。

 

本稿は、「虎乗り鐘馗」画の年賀状にまつわる、戦中世代の関わりについて、ご本人の回顧をもとにまとめたものである。この中には、人として大切な事柄、思いやりや信頼そして約束など、日本人らしい情緒が背景に表れているように思う。手本として見習うべき人間像なのだ。

 「戦死して靖國の神となるのではない。己の死を覚悟して飛び立たんとする時、既に神であった」

靖國神社宮司であった当時、大野が何度も繰り返した言葉である。

 「生きたい」とする生命欲は、人間の数ある欲望の中でも最大最強のものである。その強大な欲望に打ち勝って、国難の打開の為にひたむきに訓練を重ねて、死んでいった青年達。その姿や心を、己の心に刻んで懸命にそれぞれの職分に励んできた大野や岸田の世代によって、戦後日本の奇跡の復興はもたらされた。

 「戦争で死んでいった兄弟や先輩、同僚のことを思えば、これしきの苦労など何ほどのものか」

 大野たちの世代が共有する意識、同世代としての連帯感を、次の世代の日本人は持っていない。喜びや悲しみをともにしたいとする心情に強弱があるとすれば、戦後の日本人は確実に、その心情が弱くなってきている。それどころか、他人の感情がわからないことを恥じ入る気持ちすら失ったかのような日本人さえ現れた。家族や会社、地域社会とあらゆる場面での人間関係の希薄化。個人主義による繋がりの弱さこそが、子の虐待などの社会問題の根源にある。だからこそ、大野や岸田の世代に学ばねばならないのだ。

 日本の風土によって培われてきた日本人らしい情緒があってこそ、日本人としての道義は互いの中に確認しあえることを。そして、その道義あってこそ、勝手気ままな利己主義を許さなかった日本の家庭があったことを。

 

平成二十二年寅歳  「虎乗り鐘馗の年賀状」の縁起

 

 一、「虎乗り鐘馗」画の年賀状

 平成二十二年は、寅歳であった。この年、熊本県天草市の本渡諏訪神社名誉宮司大野俊康(米寿)・宮司大野康孝(還暦)が連名で発送した年賀状には、江戸凧絵師・岸田哲弥による実に見事な墨絵「虎乗り鐘馗」が印刷されてあった。

 近頃の日本の世相の表れか、年賀状の干支として描かれる虎も、大方が優しげな猫のようなものばかりである中にあって、この年賀状の猛々しい虎は実に見事、出色の出来映えである。

 牙以上の鋭さを感じさせる目つき、踏み出した前足の力強さ。しかし、跨っている鐘馗は更に迫力満点。敵を切り裂かんとする剣を右手に、左手は隆起した筋肉で手綱を絞り上げ、その眼光たるや正に相手を一瞬にして射抜くようである。

 これから語ろうとするのは、この一枚の「虎乗り鐘馗の年賀状」の縁起である。

 

 二、神社人、その一体感のままに

 平成四年四月、靖國神社第七代宮司に、熊本県本渡諏訪神社宮司であった大野俊康が就任した。大野は、熊本県神社庁長などを歴任した神社界の重鎮で、軍歴もあることから神職の世界にとっては適任者。

 しかし、靖國神社は神社界では極めて特殊な存在で、全国の神社を包括する神社本庁と友好なる関係を維持しつつも、その傘下には入っていない。それは、政治と宗教の関わりにおいて、最も象徴的な存在であるため、あえて本庁に属さず単立の神社との立場を守っている。さらに、それは国内だけでなく、外国からの政治的攻撃対象ともなってきたためでもあった。このような背景もあり、靖國神社の先の二代の宮司はどちらも神社界出身ではない。

 先々代は元皇族であり旧華族(侯爵)の筑波藤麿。そして先代宮司は、幕末期の名君として誉れ高い越前の松平春獄公の直孫にして、松平慶民元宮内大臣の長男松平永芳。戦時中は海軍士官、戦後は陸上自衛官だった人である。

 大野は、神社界出身としては五十四年振りの靖國神社宮司となった。さらには大野自身が述懐しているように「熊本天草の田舎神主が、政治的にも難しい舵取りを求められる靖國神社宮司に就任することなど思いも寄らないこと」ではあったが、松平から大野への交代は、その大きく異なる経歴の違いを微塵も感じさせないほどに、戦歿英霊の慰霊顕彰という理念の継承においては一貫したものであった。

 しかし、ただ一点、両者とも遺族崇敬者の心に添うことを第一としながらも、表層にあらわれる関わり方が大きく違っていた。

 松平は公私の区別を厳格に求め、遺族や崇敬者との関わり方においても明確な規範を己に課し、その距離感はどのような場面においても公平なものであった。よって判断には一切の偏りなく、時の総理大臣の意向といえども、世にこびるものと断ずれば迷いなくこれを突っぱねるだけの気骨をも示した。

 ところが一方、大野は遺族や崇敬者との関わり方において、一旦これはと思うと、靖國神社宮司の裃を脱ぎ捨て、一人の遺族として、戦友として、日本人として御社を訪ねる人々と腹蔵無く語り合い心から交流したのである。

 それは神社の中だけにとどまらず、時には職舎へと招待し天草から送らせた海の幸で持てなしたり、それぞれの縁りの地へと出かけ、その風土の中にあって心から話し合い信頼を築いていった。それはまさに、最も日本人らしいと評される熊本県の中にあっても、一層地域の絆の深い天草の地にあって、夫婦家族が一体となって神社を守り、氏子と一つになって祭祀を伝えてきた神社人の心映えが、そのまま人柄となって溢れた大野であれば当然のことであった。公も私も無い。ありのままの大野俊康という宮司が、遺族と交流するのであった。

 郷土の鎮守の宮司と、旧官社の宮司の在り方は自ずと違う、などといった理屈からの批判も事実、神社内外にあったのである。

 しかし、大野は全く意に介さず。「公私の区別がない」などと指摘されても、ありのままの自分そのものに区別などないのだから、本人にとっては当然のことであったろう。

 そのような人柄の大野俊康宮司と遺族・崇敬者との交流の中から、「虎乗り鐘馗」の年賀状も生まれたのである。

 

 三、九段の空に田原凧

 平成七年十二月二十四日、愛知県渥美郡田原町の田原凧保存会と同町遺族会により、明くる新年を祝い靖國神社神門を飾る為に横三・一メートル、縦一・六メートルの大凧が奉納された。飾り付ける前に、「田原町出身の戦歿者が、若い日に凧揚げに興じたことを思い出してもらいたい」との遺族会の人々の発意によって、九段の空に喧嘩凧が乱舞したのである。この様子を終始拝観して感激した大野は、五月に開催される「田原凧まつり」に参加することを約束したのであった。

 翌年の五月二十五日、夫人を伴い豊橋経由で夕方には田原町に到着、午後六時より開催された「前夜祭」に出席し、その盛大な様子に驚きつつ来賓として挨拶。九段の空に舞った田原凧の様子を紹介し、その感激と御礼を述べた。

 ここには全国各地の有名凧保存会関係者も数多く出席していた。たまたま隣り合わせたのが江戸凧保存会の代表の面々。「靖國さん」の地元である我々が後れを取りまことに申し訳ないとの言葉とともに、「今年の年末には江戸凧を奉納します」と確約されたのである。この代表者こそが「虎乗り鐘馗」の作者、江戸凧絵師・岸田哲弥であった。

 岸田は、陸軍士官学校第五十八期生の元陸軍中尉。会場に詰めかけた数百人の「凧きち」同様、凧揚げに夢中になりきる童心そのままの熱血漢であった。

 大野と岸田は、大東亜戦争末期に訓練部隊こそ違っていたが、ともに陸軍航空特攻の搭乗員を目指し、命懸けの訓練に励んだ経歴を持っていた。意気投合するのは当然だった。

 翌朝八時半、「田原凧まつり」は始まった。百以上の凧が初夏の大空を乱舞、はっぴ姿の「凧きち」が大声あげて走り回っていた。大野夫妻は、有名な喧嘩凧を一望できる場所を見つけ、腰を下ろして一時間半、飽くことなく堪能したのであった。

 

 この後、夫妻は、江戸時代後期の蘭学者、画家としても名高い渡辺崋山ゆかりの施設を始め、田原町六ヶ所を巡った。特に田原城址の巴江神社の境内社である護国神社の立派なることに感動。戦歿者を大切にしてきた美風あればこそ、昨年末の靖國神社への田原凧奉納があったものと得心したのであった。