
令和八年三月十一日(水)、靖國神社職員勉強会にて講師をつとめました。講演時間は約九十分間で、この度神社により文字起こしをして戴きましたので、今後十四回に分けて掲載致します。どうぞ、お読み下さい。
司会
それでは、これより教学研究会主催の社内講演会を開催いたします。今回は、「語りて、響き合う心」と題して、野口次郎様に御講演をいただきます。御講演の後、質疑応答の時間を設ける予定です。
それでは、講師の野口さんを御紹介いたします。野口次郎様は、昭和三十二年、札幌市にお生まれになりました。昭和五十七年國學院大學を御卒業の後、靖國神社に奉職、平成十一年には御退職をされ、宮城県の志波彦神社鹽竈神社に奉職されました。宮城県では平成二十一年より宮城県神社庁駐在の神社本庁教誨師をお務めになり、平成二十六年には宮城県警察学校永年勤続倫理講師として、また翌年、平成二十七年には東北管区警察学校永年勤続職務倫理講師として、それぞれ感謝状表彰をお受けになられております。去る令和五年に志波彦神社鹽竈神社を御退職されました。
それでは、早速ですが、野口様、よろしくお願いいたします。
野口
皆様、お晩でございます。野口です。くしくも今日は三月十一日でありまして、東日本大震災のことからお話を始めたいと思います。時間は限られておりますが、お聞き取りいただきたいと思います。
十五年前、警察官はそれぞれの職域にあって、避難誘導を始め様々な警察活動の中、宮城県では九名の警察官の方が殉職されております。これは宮城県警のパトカーです。宮城岩手のリアス式海岸は入江も深くジグザグの海岸線が続いているのが、仙台塩釜港からは穏やかな海岸線、その松林が伸びて美しい光景に黒い津波が襲った場面を御覧になった方もいると思いますが、そのときにこのパトカーは避難誘導を促して逆に海のほうに走っていったという状況で、被災したわけであります。
つまり、自分たちは逃げずに、避難誘導を最優先に考えて海に向かって走っていった。その結果でありました。
これから三年後、震災の影響が少し落ち着いて、震災の中で殉職していった同僚や地域の人たちの顕彰のために、私は県警本部に呼ばれまして、幹部警察官十七名に御英霊を語りました。そのときにいただいた感想を紹介いたします。
三月十一日、午後二時四十分を迎えた直後のあの瞬間、多くの警察官が自分自身の中で一つの覚悟を持ったと思います。そして、午後四時前後の大津波の到来とともに、各自が持った覚悟は現実味を持っていきました。あのとき、我々警察官の前に展開されたのは、目を背けたくなるほどの惨状だったはずです。その修羅場の中で、黙々と警察活動を続けてきた我々警察官には、やはり「覚悟」は残っていたのだと思います。
昨今、韓国における客船沈没事故のありさまをテレビニュースで垣間見て、(注釈・これは、高校生たちが多く避難誘導されることもなく船とともに沈んでしまったあの悲惨な事故の中で、船長だけが生き残ったという事故でありました。)
あの311の惨状での警察官を思い起こす都度、私は、日本人であること、日本の警察官であることにやはり誇りを感じます。誰も逃げなかったし、誰も後ろ指をさされることはなかったのですから。
これが幹部警察官の感想です。
私は胸を突かれました。幹部警察官にとって一番の恐れは、もしも一人でも制服制帽でその職域を投げ出して逃げたならば、警察官の信用は地に落ちる、そういう気持ちが幹部にあったのだろうと。そして、一人も逃げずに職務にあたったということが、今に至るまで宮城県警の誇りとするところであります。
目の前に来る津波に向かって命を投げ出して突っ込んでいった警察官、一人でも住民を救いたいと思って、消防団員等も身をなげうっていきました。多くのそういう人たちがあった中で、今も県警の誇りとするところは、逃げるなという命令など出せるはずも無い中で、本当にそれぞれの判断で、その職域に亡くなっていった人たちを誇りとするというのが県警の姿勢でありました。
多くの警察官と交わる中で、様々なことを聞きました。私は鹽竈神社におりまして、警察学校まではおよそ車で四十分くらいかかるのですが、毎回教官の方が車を運転してお迎えに来てくれます。そのときは女性の警察官でした。この時、後部座席の私と運転をするその女性警察官といろいろなお話をした中で、東日本大震災の話に及んだときでした。
その方は、いきなりぐっとこうハンドルに伏して泣き始めたのです。車を側道に止めて、声を上げて嗚咽していました。私は何が起こったか分からなかった。そのときにその方はこれだけを言ったのです。あの日、娘の小学校の行事の都合で勤務を交代してもらったのです。その交代した相手が亡くなりましたと。それ以上は言葉にならなかった。
深刻な悲しみ、苦しみというのは、月日を経てもまた襲い来る、再びよみがえってくる。なかなかその傷から立ち上がることができないわけでありますけれども、さらには、こういう記憶を語ってくれた方がありました。
県南の地区で発見された御遺体は、警察学校に運ばれて洗い清められ納棺されました。その一連の作業に学生たちも当たったのです。生まれて初めて見る死体、それも津波に巻き込まれ損傷著しい御遺体を洗い清める作業。それは、現職の我々にとっても経験したことのない非常に厳しいものでした。それだけに、ショックを受けて作業に出てくることができなくなってしまった学生もいます。 そんなときは、「貴様たちのこれからの警察人生において、これほど過酷な現場には二度と立つことはないだろう。逆に言えば、どんな現場にも立ち向かうことができる心構えが得られる経験だ。」と学生を励ましました。でもそれは、自分自身に対する言葉でもありました。しかし、我々でも耐え切れなかったのは、小さい子供や赤ちゃんの御遺体を目にしたときです。どうしても我が子のことを考えてしまい、感情を抑えることは出来ませんでした。
私もあの震災の現場といいましょうか、宮城県におりましたので、改めて思いましたのは、自分の目の前のことしか知らないわけですね。本当に後から、ああそうだったのか、こんなつらいことがあったのかと、そういうことを知らされるばかりでありますけれども、そういう経験の中で、警察学校の学生が書く英霊に対する感想文が大きく変化したのです。 つづく

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