次は、現在の遊就館には展示されていないと思うのですが、平成五年、学徒出陣五十年というときに、この古谷眞二さんの御遺影、御遺書とともに展示しましたら、若い女性がこの古谷さんの姿だけを見に来る。それほどの美青年、美しい顔立ちの優しげな印象の方でありました。
しかし、この方の書いた遺書は、昭和四十五年、あの市ヶ谷の自衛隊で割腹自決した三島をも泣かしめた。三島由紀夫を泣かせた遺書としてあまりにも有名です。
三島は、「すごい名文だ、命をかけて書いているのだからとてもかなわない、自分にはとても書けない。」あの三島がそう言って声を上げて泣いた。広島県江田島の教育参考館の館長さんはそう記しております。古谷眞二さんの遺書であります。
御両親はもとより小生が大いなる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉れを担はんこと、朝な夕な神仏に懇願すべくは之親子の情にして当然也。
然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らんことを望むを許されざる現状に在り。
大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、すべて一身上のことを忘れ、後顧の憂いなく干戈を執らんの覚悟なり。
文字づらだけ読んでいると分からないのですが、こうやって口に出して読むと本当に流れるような名文です。全て言い尽くし、そして余計な言葉の無い名文だと思います。
しかし、この中で「大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し」とある。国家に対し、天皇陛下に対して忠義を尽くし切ることが親孝行になりますと、この方はそうはっきり決心を固めております。ところが、今の世の中でこれが一番語りにくい。教育勅語の中の「義勇公ニ奉シ」も同様であります。
しかし、このことを見事に証明してくれたのは、このときこの古谷さんの母校、慶應義塾の塾長だった小泉信三氏であります。小泉信三さんは、この塾生の出征に際し、次のような手紙を送っています。
拝啓、今日図らずも塾にて拝顔、神雷部隊員として近々御出発の由承りながら、咄嗟のことにて、ゆるゆるお名残を惜しむいとまもなく御別れ致し、残念の至りに存じます。あとで、御一緒に食事をすればよかったとか、其他様々のことを思いました。国民の一人として感謝の言葉もありません。
僕は永久に君の名を忘れません。また君を養育なされた御両親様を衷心より尊敬申し上げます。人の子としてこれほどの親孝行はないと思います。どうか心安く、また心静かに十分の働きをなされ、君国のために御尽くしくださるよう心から祈ります。
慶應義塾は君のような方を出したことを誇りとします。どうかこのことを心に留めてください。
昭和十九年十二月十三日夜
小 泉 信 三
海軍中尉、古谷眞二様
しかし、この手紙を書いた時点で、既に小泉家は長男信吉さんを戦死させておりました。そしてこの息子に対しても全く同意同様の文章を送って激励しているのであります。この父親としても息子に対してこういう手紙を送っております。
君の出征に臨んで言っておく。
我々両親は、完全に君に満足し、君を我が子とすることを何よりの誇りとしている。僕はもしも我が子を選ぶということができるものなら、我々二人は必ず君を選ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。
君はなお父母に孝養を尽くしたいと思っているかもしれないが、我々夫婦は、今日までの二十四年の間に、およそ人の親として受け得る限りの幸福は既に享けた。親に対し、妹に対し、なおし残したことがあると思ってはならぬ。
二十四年という年月は長くはないが、君の今日までの生活は、如何なる人にも恥ずかしくない、悔ゆるところなき立派な生活である。お母様のこと、加代、妙のことは必ず僕が引き受けた。
お祖父様の孫らしく、我々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。 父より
信吉君
と、全く同意同様でありました。戦後、皇太子殿下、今の上皇陛下の御養育係としてそのお務めを果たされた小泉信三さん、当時、当代一の人格者として知られた方でありました。
しかし、慶應義塾という学校は今やそういう同窓戦没者に対する思いを持ちません。
小泉塾長の志も、日陰に置かれたままなのです。 つづく


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