88、靖國神社職員勉強会での講話その6

靖國神社第7代大野俊康宮司
靖國神社第7代大野俊康宮司

 多くの学生たちが、昭和十八年、学徒出陣をしていきました。次は、私の書いたものですけれども、

 

 言葉は交わさずとも、出征していく塾生と学長の間には、こうした心通い合う師弟愛があった。 それから五十年、師弟愛など知らぬがごとき出来事が起こる。学徒出陣五十年の平成五年、全国二百七十二の私立大学学長らが、かつて大学が出陣学徒を歓呼の声で送り出したことについて反省する共同声明を出したのだ

これに対して、関西大学の谷沢永一教授は、痛烈なる批判をしている。

 「昭和十八年は日本がいまだかつて体験したことのない非常時であった。学徒出陣はせっぱ詰まった国家のやむを得ない要請であった。」「そのとき学長の職にあった者なら誰でも、率先して勇ましく学徒を励まし、りんりんとして壮行会を催さなければならなかった。それが歴史の真実というものである。」

「自分たちの正真正銘の先祖をおとしめ罵ることで、後世の自らは正しいのである、立派なのであると売り込んだのだ。」

 これが平成五年、学徒出陣の特別展の当時に出された声明でありました。まだ学徒出陣組、そのときの靖國神社の宮司は大野俊康宮司で学徒出陣組。こう語っています。『わしは自分の体の血管の血が逆流するような怒りを覚えた』と。本当にその当時の学徒の人たちの怒りは激しいものでした。

 

 引き続き、私の文章で恐縮ですけれども、

 

 歴史上の日本人を貶める罵詈雑言がまかり通る世相にあっても、最も親思いの人こそが、国を思う真情の人であった史実を教え示せば、心の中にある親心、子供としての孝心など良い心が呼び起こされるに違いない。人の心の実相を覆い隠し続けることなど出来はしない。近い将来、否定され批判されるのは、出陣学徒を歓呼の声で送り出したことについて反省する共同声明を出した全国二百七十二校の私立学校学長らの方である。

 

 教育勅語はこう言っております。

 「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」

 教育勅語を語るとき、最も難しいのがこの部分。しかし、ひるんではいけない。我々は務めとして教育勅語の「義勇公ニ奉シ」この言葉を語り続けなければいけない。正に日本精神のその根本であります。

 景行天皇の命令の下、あの過酷な東国まで遠征を命じられたヤマトタケルは、叔母に泣きついて、父は私を殺そうとしているのかと、そこまで言って嘆き悲しんだ。しかし、その命令の中にある親心、それを感じつつ、ヤマトタケルは最後、命を落として白鳥となった。

 この神話語りも正に原点、日本の我ら勇士の原点、日本男子の原点として神話が始まる。そのところから勇者の歴史は紡いでこられた。神話語りというものは、神代のことだけではない。この戦没者の話こそ、この神話へつながる神話の入り口として今の人たちにも語られる内容だと、私は思います。

 

 次に紹介するのは、市島保男さんの日記です。 

 市島さんの日記は、皆さんも御存じかもしれません。『きけ、わだつみの声』に一番大きな分量で載っておりますし、多くの方に深い感銘を与え続けた日記であります。

 しかし、市島家は『きけ、わだつみの声』が出版されて以降、一切の取材や遺品の提供を断ってきました。けれども、靖國神社で特別展を行うのであればということで、御遺族がスミレの押し花や写真などの史料を持って来られたのです。

 なぜ市島家は『きけ、わだつみの声』掲載後、その遺品や史料の提出を拒んだか。あまりにも保男さんの意志が踏みにじられて、一方的な戦争否定の編集方針で作られた本に対する無言の抵抗だったのです。

 市島保男さんの写真も平成五年になって初めてこの遊就館で展示をされて、一般の人たちは、「アッ、これが市島さんの笑顔か!」と、その写真に感銘を受けておられた。その市島日記の一部であります。

 

 二十四日(昭和二十年四月二十四日)隣の部屋では酒を飲んで騒いでいるがそれも又よし。

俺は死する迄静かな気持ちでいたい。人間は死する迄精進し続けるべきだ。

まして、大和魂を代表する我々特攻隊員である。その名に恥じない行動を最後まで堅持したい。

 私は、自己の人生は人間が歩み得る最も美しい道の一つを歩んできたと信じている。

精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでいた人々の美しい愛情のおかげであった。

今限りなく美しい祖国に我が清き生命を捧げ得ることに大きな誇りと喜びを感ずる。          つづく