次は、市島さんを見送った山岡荘八さんの記録であります。報道班員、山岡荘八さんは戦後、「徳川家康」、「伊達政宗」といった著名な作品があり、日本の歴史小説の大家として、多くの人に読まれた方であります。その山岡荘八さんが報道班員として鹿屋に送られ、そして最初に見送った中に市島さんがおりました。その記述です。
実はそれが私の見た最初の突入部隊だったのだ。「いま、二十四機で出撃するところです。」案内をしてくれた通信長に言われて、私の体は一度に硬直してしまった。
この若者たちが数時間後にはことごとく死んでいる。生と死は既にこの校庭で絶対のものとして交わっているのだ。と、思ったときにはその列は飛行場目指して歩き出し、同時に一人列を離れた若者が白いマフラーを風になびかせながら真っすぐに私のほうへ駆けだしてきた。
「報道班員、これをお願いします。あなたが最も適当と思う方法で処理してください。いろいろ御苦労さまです。さようなら」
私より幾分背の低い少尉の襟章をつけた若者は早口にそう言うと、ぼんやり立っている私の手に封筒を握らせ、人懐っこい笑いを残して、みんなの後を追っていった。
と、山岡さんは書いております。さらに、続けます。
ウロウロと飛行場への山路を上ってゆき、生まれて初めて帰ることのない出撃者を見送った。そして、私が改めて封筒を調べたのは、彼らのうちの十九機が無事に突入したという無線が壕内の通信所に入ってからだった。
さっきの若者はもう誰も生きてはいない。
私は、預けられた封筒を、遺書か手紙だと思って調べてみると、それは百十三円二十銭という現金ではなかったか。
私はうろたえた。相手の若者は少尉、少尉にとってその金額は一か月分の俸給に近い。
私が、まぶたに残っているその若者の笑顔をたよりに、各隊の間を駆け回って、筑波隊のある兵曹から見せられた写真の中に彼を認め、彼の姓が「市島」ということだけを知り得た。
さらに、山岡日記から、西田高光さんについてもお話をしておきたいと思います。
西田さんこそは、最も冷静でしっかりとした考えの持ち主だと判断した山岡さんは、彼に対して禁句になっている質問をしたのです。
禁句になっている質問を矢継ぎ早に浴びせていった。この戦いを果たして勝ち抜けると思っているのかどうか。もし負けても悔いはないのか。今日の心境になるまでどのような心理の波があったのか。
重い口調で現在ここに来る人々は皆自分から進んで志願したものであること。したがってもはや動揺期は克服していること。
そして最後にこう付け加えた。
「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、その後はどうなるのです。お分かりでしょう。我々の生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに。」
そして、「最後の従軍」は、次のように結ばれています。
私の見聞の限りではみじんもウソのなかった世界、それだけに私もまた生涯その影響の外で生きようとは思っていない。
又、最も長い時代小説として有名な「徳川家康」の執筆動機の中で山岡さんは、こう書いています。
戦争末期、鹿児島県鹿屋の特別攻撃隊神雷部隊の報道班員として、日々艦隊に突入していく若い航空隊員と生活をともにした。戦後、占領軍のラジオによる独善放送の悪罵に耐えていたときに、鹿屋で見送った純真な諸霊を慰める方法として、自分にでき得ることは、徳川家康の長い堪忍の生涯を書いて、戦後の同胞を勇気づけることだと決意した。
山岡さんの「最後の従軍」という文章は、実は遊就館にもありませんでした。市島さんの遺族さんが持って来られた資料の中に、その朝日新聞の掲載部分があって、それが連続で五回だったと思いますけれども、そういう連載があったということを知って大野宮司が、野口君、朝日に行って、この縮刷版をもらってきてくれないかということで、私は朝日新聞へ走って、この連載の掲載された新聞の縮刷版のコピーをもらってきました。
そのとき我慢ができずに、地下鉄日比谷線の中で新聞を開いていました。読み続けるうちに、込み上げてくる感情で思わず涙が出ました。けれども、本当にそういう思いで資料に当たってきたということは間違いありません。少しでも、心に気かかることがあったら、そうやって調べて、そしてそこから広がっていく。
この記録も、大野宮司が全部読んでみたい、そういう思いから今、こうやって『いざさらば我はみくにの山桜』という本にも全文掲載になっています。ぜひ読んでいただきたいと思っています。 つづく


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